昭和44年02月20日 夜の御理解
「神に近付くようにせよ」とこう言われるわけです。神様へ近付くようにせよと言う事は、どう言う事かと。神様の前に出る事が、言わば好きになれと言う事だと思うんです「神に近付くようにせよ」って神様はもう、いつも離れなさることはできんのであり、いつもどこででも神様は、私どものあの側におって下さる。心の中におって下さるのだけれども、問題はそれを自覚するしないって、と言う所に神様が違うて来る訳です。
ですからもう「神に近付くようにせよ」とおっしゃらんでも、神様の方から近付いて下さりゃいいじゃないか、と言う様な考え方もあるですけれども、いやそこまでも、だからお広前へ近付くようにせよ、という意味だと思うんですね。神に近付くようにせよと。ですから、なら近付くようにしたい、近付くようにありたいと思うても、そう言われるから近付くと言うのであっては、むしろ側におってその、信心のあらが見えてくるぐらいのことですね。
ですからあの、近付くと言う事は、近付かなければおられないというものを、やはり頂かないけんと思うんですね。それにはやはり、「好きになる」と言う事だと思うんですね。信心が好きにならなきゃならん。と言う事は、修行が好きになると言う事にもなりましょうね。いわゆる御神前に額づく事を、たびたびである事が有り難いのであり。お広前へしげしげとお引き寄せを頂くと言う事が有り難い、楽しいと言う事になってくるんだと思うんです。私は今日忘れとって今、御祈念中に思い出したんですが。
今朝ほどにこんなお夢頂いとったなぁ、とこう思うんです。それがもう田舎芝居を見に行って、それにその皆一緒に連れて、付いて行ったのが、ここのご信者さん方ばっかりなんです。それでもういっぱいでその、座る所がないでごたるけれども、後ろの方だけがこうやって空いておった。そして皆そこへ座った。(?)こんな後ろから見たって、もう後ろで観たことないから、どこかで物色したところがその、前の方に誰か座布団ば、ザーッと敷いてある所の、座布団と座布団の合間が。
まあ一人二人座られるようなところだったから、そこをこうこう「ごめんなさい、ごめんなさい」って前へ行ってから、まあ舞台から二、三枚目の所に座ったところのお夢であった。私はこれで、私し芝居を見るのはもう、少し首がだるかったっちゃ、こうやって見るごたるでも、後ろと前とが空いとるっちゅうなら、前の方に行くんです。私は。なるほど役者のそのあらが見えます。もう年をとった俳優なんかの場合だったら、いくら化粧しとっても皺が見えたり。
やはりあの、ぎこちないところが、あの遠くからなら見えない、立派な人形のように見えるのが、側から見ると見えますけれども、そのかわりに、もう小さい手の動きから、表情ひとつが見えるんです。私どもそれが見えなければ承知がいかん。そんな感じなんです。私が、私の芝居見は。というほどにまた、好きなのですね。ですから芝居小屋の隅の方からやらはね、もう三等席でも、二階の上の方から見たって、もう私どもは芝居を見た気持ちはいたしません。
と同じでですね、今朝からそういうお夢頂いとった。ほいであんなお夢頂いとったなぁと思ったんです。この夢に他に続きがあるんですけれども。それからですね、信心も好きなりますと、神様の側へできるだけ、できるだけ近付かなければおられない。私どもはどこへ参りましても、どこへ大祭へ拝むんでも、もうここに若先生が座っとる所の真ん中の一番前に座るんです。それでなきゃ拝んだ事がない。
例えばお広前でもそうです。お広前の隅の方からども拝んだって、御祈念した事にはなか。と私は思うんですけれども、向こうの方へおってもやっぱり、もうお参りしたと言う気持ち。いわゆるお芝居を見に行って、舞台の小屋の隅の方から見ても芝居を見に行ったのであり、前の方から見てもやっぱり、芝居を見に行ったのである。だからただ芝居の美しさくらいは分かるけれども、いわゆる細かい芸が見えない。例えば神様の事は忘れません。ご信心なくても「神様の事は忘れませんlとこう言いよるけれどもね。
だんだんなるほど神様はやはりもうこの太さなら、こんな細さなんですけれどね。側におる時にはもう、こうを覗いて見る様に大きいこの神様がね、段々離れて行くに従って、「いやあ忘れはしません。忘れしません」と言うとるうちにです、小さく見えて来る様になる。これは事実ですね。もう1ヵ月も2ヶ月も、もう半年もご無礼するようになって、もういよいよ遠ざかっとりますから「もう神様の事は、私は金光様のご信者でございます」と言いよってもですね、もうもう見えるか見えないくらいになります。
もうこうなったら信心もお終いです。その頃からです、私はその夢の続きを頂いておった。今朝の御理解を頂きますと、ははあ今朝の御理解に繋がったなぁ、と私も思うんです。またということが分かるんですけれどもね。その方がですね、朝からと申しますが、その方があの、非常にその、仕切り書を書いてるんですね。それでその名宛が私が、名宛になってるんです。仕切り書は請求書なんです。
私は、「この人から、いつお金ば借りとったじゃろうか」と思ちからかってに座ってから、こう私が見合うとね、十九万なんぼになっとる。こげん私借りた。そいがもう、宅祭りのした時の贈与んこつからですね、お供えした時のこつから、もうどこどこに一緒に行ってから、お茶を頂いた時のこつから、そのずうっと計算書にその言わば、目録に書いてるんです。この人じゃろかそろばん立てしておるね。
もうそれが遠くなって行くんですね。神様が見えんこつなったら、ぼちぼち思いよる事がですね、「あらぁほんにあんなぼうけちから、どんどん参りよる時には、そうにお金も使とたとこう思いよるです。そしてほんにいくらぐらい使ておると。一生懸命金光様の信心しよる時には、いくらぐらいお供えして、もう今頃、この金があるならば、ちゅう事を思いよる感じなんですね。
遠ざかってまいりますとね、そう言う事にもなりかねないわけです。そして今朝から、私の頂いたような御理解の事になってくるんですね。いわゆるおかげを落とす条件が揃ってくるんです。ね。おかげを頂くということでもね、おかげを頂くと言う事でも、絶対本当のおかげと言うのは、お願いしておかげを頂くと言った様なものじゃなくて、神様がね「信心しておかげを受けてくれよ」と仰るようなおかげです。
それを今朝から「祈れ薬れすればおかげになるけれども、薬れ祈れにするからおかげにならん」と言う、あの御理解を元にして頂いたんです「薬れ祈れにすればおかげにならん」とこう断言しておられるところがです、これは薬れ祈れとか体の事とかね。ケガとかいうような事じゃないと言う事なんですね。例えば「薬れ祈れ」と言う事は、まず薬の方を先にとって「神様」と言う様な、言うなら自分を中心にした信心ではですよ、おかげにならん、とこう言うておられるのはそれではなら病気が治らんことはない。
治ってる人もたくさんあるし、信心がなかったってやはり、医者や病人で薬でおかげを頂いて治っておるんですから、おかげにならんと仰るおかげは、そういうおかげではないと言うことが分かる。おかげにならんと仰るのはね。いわゆる神様が信心しておかげを受けてくれよと仰るおかげなんです。これがもう絶対自分を中心にした信心じゃおかげにならん。いわゆる神様ご中心に申し上げた。
いわゆる祈れ薬れ祈れ薬れの、祈る方を先にするという信心。言うなら神様を中心に申し上げた所の信心からしか、おかげにならんと仰せられるのは、こう言う事だと言う様な事を今朝から頂いて、その中に例はまあ出ておりますの、例の中にのその人の事が、今私はあほんにあんなお夢頂いとったたいと言うのがその人なんです。だから今日の御理解と繋がってる感じね。
ですからもう、神様に言わば目録を出すようになる。ほんとにもう何年信心さして頂いてから、ほんとに神様にずいぶん使たろうとね。いつか甘木の親先生の時代もそういう事があったそうです。そういう意味の事を言った時に、甘木の先生がそんなら、いっちょ神様に、計算書ば出してもらおうかねと仰ったちゅうた。神様の方から言わば計算書が出るようになったら、どう言う事になるだろうか。
それを今朝の御理解ではね、いよいよ、もう神様から計算書が出るというところまで、そういう言葉使ってませんけれども、そういうお知らせを頂いたね。いわゆるいよいよおかげを落とす時にはね、もうこんな事したからおかげを落とすじゃない。あんな事を何遍繰り返したからおかげ、罰かぶるのじゃない。もうずうっとおかげを落とす条件が揃うてしまうんです。
百のものであるなら九十九までぐらい、例えば条件が揃う。もう一つこの人がまあ分かり易く言うなら、悪い事したらもうおかげを落とす様な事になっておるような人でも、九十九回頃にはっと180度転換をして改まりゃ、またいわゆる詫びれば許してやりたいのが親心と言う様なおかげになってくるけれども。結局信心を遠ざかってくると、そういう神様のことに使うお金をそろばん立てするようになってくる。
結局それはどう言う事かと言うと、信心が言わば好きになると言う所まで行ってなかったからだ、と言う事になるのですね。私どもはお芝居を見せて頂いてから、もうほんとに言うならば、二枚目か三枚目ぐらいの所から見らなければ、芝居を見たような気がいたしませんように、神様に接近する。「神に近付くよいうにせよ」と仰る。だからなら神様に近付けと仰るから、近付くのではなくてです、近付かなければおられないという信心を頂けと言うのです。
おかげを受けるのにもです、やはりほんとにもう、これだけの条件が揃わなければ、ほんとのおかげにならないと言う事が、ことになるんですけれども。おかげを落とす事でも同じこと。自分では忘れておりません。忘れておりませんどうなっても、見えんことになっとってもですね。そしてそこにはお粗末ご無礼が次々できていって、お気付きを頂きおっても、お気付けをお気付けと気付かんようになってくる。そこからおかげを落とす条件がたくさん揃てくる。
揃うた時です、これはもうどうにもできない。けどそういうお知らせを頂いて、私今日はその事を神様に、またお願いさして頂いたことでございますけれども。確かにあの時には、もうそれこそ一生懸命に「有り難い有り難い」と言うておった身ですから、親先生の前におしいもんがなかぞとね。そん時気付かんじゃったけども、遠ざかってみたところが、「はあ、ほんとにもう、えらいことした」というふうに思い。そして言わば私に、言わば請求書を突きつけるような事にまでなりかねない。
なら「あんたが請求書出しなさらんなら、いっちょこっちからも出さじゃこて」と言われんごたることなってくる。そこに言わばもうどうにもできないおかげ落としの、その条件が揃うて来る様にですね、私どもがまたそう言う事になってもなりませんし、また私どもがほんとに近付くと言う事は、近付かなければ「近付けよ、近付けよ」と仰るから近付くんじゃなくてね。その「近付かなければおられない信心」をひとつ身に付けさして頂かなきゃならん。
それには信心がどうしても好きにならなきゃいけません。好きになればね、やはり寄るなと言われても、寄りたいのですね。それこそ側から拝まにゃ拝んだごとせんのです。ただ表からとこうやってお礼したところで、やはりお礼はお礼、ここでお礼しても同じような思い方になってね。「いいや、もう心でいつも拝みよるから」といったような結果になりかねない。金光様の信心というものはそんなもんじゃない。もう近付けば近付くほど、言わば、神様の何と言うですかね。
「大恩を感ずる」とでも申しましょうかね。神様の小さい表情のひとつひとつが分かる。なぜ分からなければいけないのかね。私どもはね、これはもう信心があろうが、信心が篤かろうがなかろうが、なべて神様のいわゆるご演出の中に、私どもがあると言う事である。神様の筋書き通り、私どもが成って行く。その筋書きがです、側におらんと分からん。いわゆるそれを神様のご都合と言うのである。
「はあ、これは神様のご都合に違いはない」と有り難く受けられるところを「信心しておってどうしてこう言う事になるじゃろうか」と言う様な頂き方をするようになるから、神様からだんだん、なお離れて行くような結果になってくるのです。もう一つ「好きこそ物の上手なれ」と言われるくらいに、好きになる為の信心を、いよいよさしてもらわなきゃいけませんですね。神様に近付くようにしなきゃいけません。
どうぞ。